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なぜ神は隠れているのか?其の二

  • 2017年12月7日
  • 読了時間: 6分

前回の続き...

ノーを与えた神

(一)自由意志

自由意志とは、選択する自由であり、神を愛することも拒否することも、私たちが自由に選べる権利を指す。もし私がロボットのように誰か一人にだけ「愛している」と言うようにプログラムされていたら、その言葉で真に愛し合う関係を築くことはできない。強制力があるからだ。しかし、私がその言葉を三〇億人以上いる女性の中から一人選んで使うとき、同じ言葉でも、そこには天と地ほどの差が生まれる。「ノー」という権利があって、初めて「イエス」が美しくなるのだ。

神が望む関係回復とは、人を強制力によって従わせることではなく、人が自ら喜んで神を愛するように選択させることなのだ。神に従うという行為は、その愛の結果として生じる副産物にすぎない。

(二)権利行使環境

神の目的である「真に愛し合う関係」の回復に必要なのは、自由意志だけではない。自由な選択をするためには、自由意志という権利を気兼ねなく自由に使える環境が必要になる。

一つの例を挙げてみよう。あなたは、高速道路で好きなだけ速く車を走らせることができる。しかし、あなたの視界に警察の姿が入ったらどうだろう? 自由な速度で運転することができるにもかかわらず、法定速度まで速度を落とし、慌ててシートベルトを確認しないだろうか?それは罰則を恐れているからだ。誰だってスピード違反で捕まりたくはない。もしそれでも猛スピードで突っ込んでいく奴がいるとすれば、そいつはミハイル・シューマッハに違いないだろう。

ここで確認しておきたいのは、スピード違反とそれに伴う罰則自体は元々存在していたのであって、警察を見つけた瞬間に発生したわけではないという点だ。しかし、警察の存在は罰則に現実味を与える。罰則への現実味が増せば増すほど、ドライバーの心には罰則に対する恐怖が生じ、多くの人はその恐怖から法律に従うことを選ぶ。罰則が与える恐怖自体に、人の自由を消し去る力はないものの、それは私たちの選択を間接的に制限し、強制することができるのだ。

つまり、真に愛し合う関係を回復するためには、自由意志だけでなく、その権利を最大限自由に行使できる心理的環境が確保される必要があるということになる。なぜなら、罰則への恐れからくる服従は、神の望むところではないからである。

神の神隠し

仮に、神が自らの姿を現し、その存在が誰の目にも明らかになれば、全ての人が神の存在を信じるだろう。しかし、それによって、あなたの全ての言動が神に見られている様子を想像してみてほしい。「お天道さまが見ているよ」などというレベルではない。その存在は、たちまち人間にとっての道徳警察になってしまうだろう。そうなった場合、あなたは先生の前では優等生だった小学時代のあの子のようになってしまわないだろうか? 確かに、ほとんどの人が神の言葉に従い、世界は今よりもっと平和になるかもしれない。でも、もしその服従が神への不服従に伴う罰則への恐怖から生まれているのだとしたら、それは神にとって何の意味もないのである。多忙なリラックマくらい意味がないのだ。

このように、神の可視化(目に見えるようにすること)は、多かれ少なかれ、神の目的達成の要である「権利行使環境」を破壊する。それは丁度、道端に立っている警察が、無言の圧力でドライバーを法に従わせるのと同じだ。もちろん、警察ならそれでも構わないのだが、神の目的はあくまでも、真に愛し合う関係の回復と、それに伴う服従であって、恐怖による支配ではない。たとえ同じ服従でも、心ここにあらずでは、その性質は正反対になってしまうのだ。

バラムの物語(民数記二二章)では、神の可視化が、人間の権利行使環境にどのように作用したのかを見ることができる。バラムという預言者は、神の意志に反すると知りながらも、私利私欲を満たそうと行動していた。しかし、そこへ天使の姿をした神が現れたので、彼は恐怖のあまり地にひれ伏して謝罪し、すぐにその行動を正そうとしたのだ。バラムは神を知っていたし、自由意志も持っていたが、神の可視化により罰則への恐怖が先行し、その権利を今までと同じように行使し続けることができなかった。結果として、彼は神に従ったが、それは恐怖からであり、彼と神との関係は、真に愛し合う関係とは程遠いものであった。

「もし神が存在するなら、その神は姿を現すべきだ」と、多くの人が考える。しかし、可視化によって自らの姿を明らかにすることは、(少なくとも今までの歴史の中では)神にとって必ずしも最善の選択ではないようである。それは、神の最終目的の達成に必要な条件を著しく損なう。神が見えることのほうが、見えないことよりも、遥かに大きな弊害を生んでしまうのだ。

神を探す旅が、人生を賭した散歩のように感じられるのは、決して神が存在しないからではない。そう感じるのは、私たちが神の目的とその達成に必要な要素を正しく理解できていないからなのだ。神はいないから出てこないのではなく、出てこないことを選択している、と考えるべきだろう。そして、神が現れた際の人間の心理状態の変化を考えるとき、出てこないという神の選択が、私たち人間のためであることは想像に難くない。

ネズミーランドと私の選択

ディズニーランドでは、園内の至る所にネズミの刻印(別名「隠れミッキー」)が隠されている。これらのマークは、たとえミッキーが周辺にいなくても、園内にミッキーが確かに存在し、その支配権が盤石であることの証拠として来園者を迎えている。

神は人前に姿を現さない。しかし、それによって、神が存在しないと結論づけるのはあまりにも早計である。神の可視化がないからといって、神が自らの存在の証拠を人間から取り去っているわけではない。むしろ、神が存在するという証拠は、至る所にあまた存在しているのだ。

「神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます」(ローマ一章一九、二〇節)

残念ながら、ここで神の存在に関する議論を展開することはできないが、たとえ神の可視化という証拠がなかったとしても、私たちは神の存在に関する証拠の多くを確認することができる。しかもそれらの証拠は、隠れミッキーのように隠されているわけではないのだ。聖書は、そのことに関する神の約束を記している。

「あなたがたはわたしを尋ね求めて、わたしに会う。もしあなたがたが一心にわたしを尋ねるならば」(エレミヤ二九章一三節、口語訳)

最後になるが、この検証は、決して神が永遠にその姿を現さないということを言っているのではない。事実、聖書は全ての人が神と顔を合わせる日が来ると預言している。それでは、今回の検証で私たちにとって最も大切なことは何だろうか? 私たちには、自由意志と権利行使環境が保証されている。このことは、私たちにとって最も大切な事柄が、「私がこの保証された権利を用いて何を選択するか」であることを意味している。私たち人間には、神の全てを理解することは到底できない。仮にできてしまったら、そんなものは神と呼ぶに値しないだろう。しかしそれは、私たちが神を知ることができないということではない。むしろ、神を選択するために必要な情報は、有り余るほど私たちに与えられている。

「神に従う人の道は輝き出る光/進むほどに光は増し、真昼の輝きとなる」(箴言四章一八節)

自分は何を選択するべきか? そう自問して、この検証を閉じようと思う。

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