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なぜ神は隠れているのか?其の一

  • 2017年12月7日
  • 読了時間: 7分

神はかくれんぼがお好き?

かくれんぼとは、主に五歳から一〇歳の子どもたちの間で、根強い人気を誇る国際的ゲームである。言うまでもなく、このゲームは、隠れているプレーヤーを発見できる可能性があって初めて成立するもので、もしその可能性なしに、一生出てこない誰かを捜して歩き回るようなことがあれば、それはただの「散歩」である。毒素を体外に排出するデトックス効果に期待しよう。

人類はデトックス効果が発見されるそのずっと昔から神を探し続けてきた。人類史を紐解けば、多くの人々が神の足跡を辿り、聖なるかくれんぼでの勝利を目指して奮闘してきたことが分かる。しかし、誰ひとりとしてその目的達成には至らなかった。「神を探す旅とは、人生を賭けた壮大な散歩の如し」。そんな格言があったかどうかは知らないが、あったとしても不思議はない。事実、多くの人たちが、「これだけ探して出てこないのだから、神なんてものは最初から存在しない」と結論づけて、神の存在を否定してきた。

もしあなたが信仰者なら、そんな結論は無神論者の戯言だと言うかもしれない。しかし、よく考えてみてほしい。現実には、聖書の登場人物でさえ、この「かくれんぼ問題」には頭を悩ませているではないか。義人として知られたヨブは、人生の苦しみの中で神を見つけることができない現実に直面し、こう言っている。「東に行ってもその方〔神〕はおられず/西に行っても見定められない。北にひそんでおられて、とらえることはできず/南に身を覆っておられて、見いだせない」(ヨブ記二三章八、九節)

更に言えば、聖書を用いたとしても、神の姿を確認するためには、歴史を二〇〇〇年ほど遡らなければならない。これは、ネス湖のネッシーもびっくりの低出没率であり、この事実は、多くの人々にとって神の存在を否定する根拠となってきた。「見つからないのだから神はいない」、「撮影されているネッシーのほうがまだ説得力がある」などという主張は非常に率直なものであって、無視されるべきではない。ネッシーの存在はともかく、神が目に見える形で出てこないという現実が、無神論者のこういった理屈に一定の説得力を与えてきたことは紛れもない事実であろう。

私は、「もし自分の目で神を見ることができたら、裸踊りをしてもいい!」と豪語する人を知っている。きっと、そういう人たちは他にも多くいるのだろう。本当に神が姿を現したら、東京は裸で踊り狂う人たちの暮らす狂気の町となるかもしれない。しかし、神が私たちの前に姿を現さない以上、そんな私の心配が現実になることはないのだ。

このように、神と直接顔を合わせることができないという現実に気づくとき、人々は大きく分けて二つの考えを持つようになる。一つ目は、前出のように、神は初めから存在しない、とする考えであり、彼らは総じて無神論者と呼ばれている。二つ目は、ヨブのように、神は存在するという前提のもと、神が姿を現さないのには何らかの理由と目的があるはずである、とする考え方である。あえて「あるはず」と書いたのは、後者に属する人々の多くが、神の存在自体は感じながらも「なぜ神はその姿を現さないのだろう?」という悶々とした思いを抱えているからである。

確かに、神が登場し、その存在が誰の目にも明らかになれば、宗教戦争をはじめとする多くの問題が解決されるだろう。神が自らの姿を現しさえすれば、私たちはすぐにでも世界平和の足音を聞くことができるかもしれない。しかし、今も昔もそんなことが現実になることはなかった。詩編に耳を傾ければ、そこには古代の有神論者たちが抱えていた、神の存在に対する悶々とした思いが響いている。「主よ、奮い立ってください。なぜ、眠っておられるのですか。永久に我らを突き放しておくことなく/目覚めてください。なぜ、御顔を隠してかられるのですか」(詩編四四編二四、二五節)

イクラちゃんという生き方

いきなりだが、漫画『サザエさん』でお馴染みのイクラちゃんの名言を三つ紹介しようと思う。「ハーイ」「チャーン」「バブー」。以上である。なぜイクラちゃんはいつまでたってもこれ以外の言葉を発しないのか? 一体どれだけの人が、この難題と眠れぬ夜を過ごしてきただろう。想像するだけで胸が張り裂ける思いである。

イクラちゃんは、かれこそ六〇年以上にわたって、これらの言葉だけで生き続けてきた。「いい加減、『ママ』くらい言ったらどうなんだ、この親不孝者が!」と、サザエさんとのジャンケンに負けた腹いせに吐き捨てたことがあるのは、私だけではないはずである。

しかし、この問いかけには一つの問題点があることを指摘しなければならない。それは、私たちがイクラちゃんの事情を考慮せずに、彼はもっと喋るべきであると勝手に決めつけてしまっている、ということである。イクラちゃんの生き方に口出しをする前に、私たちはまず、『サザエさん』という作品の中でイクラちゃんに負わされた使命を理解しなければならない。

彼に負わされた使命とは何か。それは、「イクラちゃんであり続けること」であろう。言い換えれば、イクラちゃんがサザエさんのように振る舞うことは許されないし、「ノリスケは今日も残業かい?」なんていう台詞は、口が裂けても言えない。なぜなら、そんなイクラちゃんはイクラちゃんらしくないではないか。

確かに、彼の言葉数の少なさは異常かもしれない。しかし、イクラちゃんがあえて特異な生き方に徹しているのは、自身のキャラ設定を守ることによって、『サザエさん』という作品全体のバランスを保つためなのだ。イクラちゃんは、作品全体の均衡を崩すことがないように、あえて特異な生き方を選んでいる。なんという崇高な生きざまだろう。私はここにキリストの自己犠牲の精神を垣間見た。

つまり、あの言葉数の少なさは、目的達成のための一つの手段にすぎないのだ。言うなれば、イクラちゃんは、イクラちゃんであり続けるために、イクラちゃんという生き方を選んだのであり、それこそが、イクラちゃんがイクラちゃんたる所以であり、いくらイクラちゃんといえどもいくらty(略

手段は、目的という大きな背景の中で理解されるべきである。さもなければ、私たちは、目の前の事柄を自らの勝手な思い込みで誤解してしまうだろう。イクラちゃんの言動がいかに不可解に感じられても、作中でのキャラ設定という大きな背景と照らし合わせるときに、それは妥当な手段として理解することができるのだ。

話を戻そう。「なぜ神は隠れているのか?」という問いは、この議論の出発点になるべきではない。そう問いかける前に、私たちは、「神の目的とは何か?」を探らなければならない。なぜなら、「なぜ神は隠れているのか?」という問いには、「神がその姿を人間の前に現さないのはおかしい!」という私たちの思い込みがあるからである。姿を現す、という私たちの考える最善策を神が選択しないので、それに不満と不信感を抱いて、「なぜ?」と問いかけているのだ。つまり、私たちはこの質問を投げかけることによって、神のするべきことを私たち目線で決めつけてしまっている。しかし、イクラちゃんにキャラ設定という目的があったように、神にも達成を願う目的があるはずで、その背景を知らずに私たち人間が神にとやかく言うのは的外れになりかねない。ここはまず、神の目的を正確に把握する必要があるだろう

神の目的

聖書は、神と人との関係を身体的健康になぞらえて、次のように言っている。「主は言われる、わたしはあなたの健康を回復させ、あなたの傷をいやす」(エレミヤ三〇章一七節、口語訳)

つまり、神が達成したい目的とは、不健康になってしまった人との関係を回復することなのだ。一度は壊れてしまった関係を回復すること、これこそが神の命題ということになる。言い換えれば、それは、「真に愛し合う関係」の回復であり、神はその目的達成のための手段を講じ続けてきた。シナイ山で与えられた十戒やキリストの十字架は、それ自体が目的なのではなく、目的達成のための手段にすぎないのだ。

先に確認した通り、手段は目的という大きな背景の中で理解されるべきである。決して姿を現さないという神の不可解な行動も、神の目的(真に愛し合う関係の回復)達成に必要な手段として理解するとき、極めて妥当な選択となるのかもしれない。

このことをより良く理解するために、私たちは神の目的である「真に愛し合う関係」が成立するために必要不可欠な二つの要素を知らなければならない。その二つとは、「自由意志」と「権利行使環境」である。

続く...

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